HISTORY

ベイルの歴史

 

創設者ピーターとアールの物語。

ベイルの歴史


第二次世界大戦中、コロラドの山奥にヨーロッパアルプスでの冬季戦闘の

Mr. Peter Seibert

ための強化訓練所がありました。その名を「キャンプヘール、Camp Hale」、そこでトレーニングを受けた若者はみんなコロラドのそのダイナミックな美しさに心を奪われ、戦争が終わったらここに帰ってきてスキーを思いきり楽しむことを夢見ました。そんな若者の一人が「ピーター サイバート氏 Peter Seibert」です。
 
彼はイタリア北部での戦闘のため、半ば半身不随の重傷を負ってアメリカに帰国しました。1945年の事です。 片足と片腕は怪我のため全然動きませんが、ピーターはスキー友達が集まっているアスペンにいきました。(そのころのアメリカを代表する有名スキー場はアスペンとアイダホ州のサンバレーでした)1946年の冬には片足、片腕でスキーをやっていたのですが、その後驚異的な回復を遂げ、翌1947年にはレースに出ていたほどでした。 ピーターの回りのスキーインストラクターやスキー好きは毎晩のようでアスペン以外で自分のスキー場をコロラドでオープンする夢を語りあっていました。そんなピーターと今のベイルに近いところで産まれ育った「アール イートン氏 Earl Eater」が共通の夢を現実のものにすべく、スキー場にあった山をひとつずつ自身で登り滑りながら探していきました。
 
1957年春、今のベイルマウンテン頂上に7時間をかけて登った二人は、全景を綺麗に表す「ホーリークロス山脈」、奥に奥にと広がる「バックボール」、北斜面を覆うスキーに適したバラエティ溢れる斜面にすっかり魅了されました。ピーターは初めてベイル山頂に立ったとき「俺が知っているスキー場のどれよりもいいスキー場になるのは間違いない」と確信しました。 1958年から59年にかけて出資者を募ってベイル会社をスタートさせましたが、林野省からのスキー場許可が降りないわ、資金は底をつくわで、順調なスタートとは言えませんでしたが1962年12月15日にスキー場開きを迎えました。
 

これはベイルのどこで撮った写真でしょうか?(答えは下に)

スキー場がオープンしたその1963年の春、デンバー国際空港、レンタカーのカウンターでの出来事。レンタカーを借りた お客さん「ベイルに行くんだけど、どこだか知っていますか?」 係員「ベイルって??」 お客さん「スキー場だけど」 係員「そんなスキー場聞いたことないな〜」 いまではカナダを含めて北米で最大のスキー場もオープンしてから1-2年は知名度ゼロ、どちらかというと同じ時期オープンしたブリッケンリッジの方がデンバーに近いだけ知られていたようです。 ここでも「ベイル、ベイル」と書いていますが、元々ベイルという地名、または町はありませんでした。町にスキー場が出来たのではなく、なにもないところにスキー場を造り、スキー場のベースがこれだけのしっかりした町になっていった経過はユニークなケースと言えるでしょう。
 
 
 

3番と4番リフトが架かる前のミッドベイル 

「ベイル」と言う名は実在したベイル氏に由来します。ベイル氏はコロラド州のハイウエイー部にいた人でコロラド州の道路を舗装していく総責任者でした。ベイルの南にある「スライダ町」近くの峠を無事舗装した彼はそのまだ名が付いていない峠に彼の名前を付けようとしましたが「スライダ町」地元民の大反対を受け、ついにはコロラド州知事の命令でその峠は「モナーク峠」となりました。 「スライダ町」の人達はその判断に大喜びでしたが、ハイウエイ部の人達は「ベイル」の名をどこかに付けなければとまだ名前が付いていない峠を探しました。そこで見つけたのが現在の「ベイルパス」、その当時は地元の人達に「ブラック ゴア峠」と呼ばれていた峠に「ベイル」の名を公式に付けたのでした。めでたし、めでたし、と。 まあ、この後もベイルがどうやって出資者を集めていったか、のスキー場の発展や、ビーバークリークの開発話等などここに書きたいことが沢山あるのですが、もうタイプしている手が痛くなったのでその後はジミー大森に直接聞いてください、ね。
 
 
答え:高速道路の降り口からスキー場の方を向いて撮ったものです。1950年頃撮影